段落作りについて
こんにちは。春也です。
今回は、読みやすい文章を作るために必要不可欠な「段落」について、その「必要性と作り方」を解説していきたいと思います。
結論から申し上げますと、段落を作ることは、文章構成において欠かせない要素の1つです!よく段落が全くない文章を見ることがありますが、これは最悪です。文章がダラダラとしていて、筆者の意見が不明瞭であり、なおかつ読みづらいです。
しかし、「段落」作りにおける指導は、小学校・中学校で多少習う程度であり、完璧にマスターする程の十分な書き方を教わる機会が少ないのも事実です。そのため、今回は「そもそも段落とは何か」からおさらいし、「段落を作る目的」、そして「段落の作り方」までを徹底的に解説していきます。この記事を読むことで、皆さんも段落作りにおける抵抗がなくなるはずです。さらに、正しく段落を作れるようになれば、文章の質も格段に上がります。
段落の種類
段落には「意味段落」と「形式段落」の2種類があります。
文章の内容によって分けられる段落のこと。つまりは、内容によって生じる区切れを表す。改行して1マス下げる。
意味段落をいくつかの段落に分けたもの。文字通り形式的なものであり、改行して1マス下げる。
これら2つの種類があります。今回使用する「段落」という言葉は、主に「意味段落」を意味しますので、ご注意下さい。
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段落を作る目的
では、そもそも段落を作る目的とは何でしょうか?
偏に段落と言っても、段落を作る目的を理解しない限りは、適切な段落作りをすることは困難でしょう。小学校・中学校と、国語の先生から「ここは段落が変わるよね」「段落を作りなさい」と言われるのには、しっかりとした目的があります。
わざわざ段落をつくる理由は、大きく分けて2つあります。この2つが、段落を作る目的として非常に大きな意味を成しているので、皆さんも段落作りをマスターするために、次にご紹介する内容をお含みおきください。
読み手にとって何が書いてあるのか分かりやすくするため
段落を作る目的の1つは、「読み手にとって何が書いてあるのか分かりやすくするため」です。段落とはそもそも、意味内容におけるまとまりを示します。これは、個々の段落によって意味内容が異なるということでもあります。そして、基本的に段落では、同じ内容が書かれていることを原則としており、これを無視することはできません。
そのため、段落が切れると、内容も変わることを意味し、読み手は、「段落が変わったから、ここからは違う内容に入るんだな」という風に、次の展開に入ることを把握できるのです。これは、読み手至上主義の小論文において、非常に重要です。
自分の考えを整理するため
段落を分けることは、読み手だけではなく、書き手にとっても重要です。なぜなら、1つのテーマに沿って文章を書いていると、思考回路が多岐に渡ってしまい、それが文章に反映されることで不明瞭な内容となってしまうからです。
段落分けを巧に行うことで、そういった不明瞭さが消え、はっきりとした輪郭のある文章を作ることが可能となります。さらに、頭の中も整理されることで、次に何を述べていくべきなのかも明確になるのです。
段落分けは双方向におけるメリットがある
以上の2つの内容から、段落分けには双方向におけるメリットがあります。読み手にとっては、段落を分けることで、文章内の現在地を確かめることができますし、書き手にとっても、頭の中を整理し、次に何を述べるべきかを明確にすることができます。
だから、段落分けを行わない理由はないのです。むしろ、正しく段落分けをすることで、読み手にとっても、書き手にとっても大きな利益が生まれるのです。
段落の作り方
段落には、個々に意味があります。意味を持たない段落はありませんから、段落分けをする際は、意味の区切れを意識する必要があります。今回は例文を使用し、適切な段落分けについて解説をしていきます。
「運動部活動の体罰問題について」
近年、運動部活動の体罰問題が顕在化しており、度々メディアに取り上げられようになった。これは、教育の一貫として、教員による体罰が行われることを言う。そもそも、運動部活動とは、競技を通して、生徒の人間的成長を図るために行われるものである。ここでいう人間的な成長とは、社会性を培うための主体性や協調性、多様性のことだが、果たして、教育の一貫として、運動部活動における体罰があっても良いのだろうか。私は、このことについて、否定的な立場をとりたい。確かに、体罰によって集団の統率を図ることは容易いだろう。一昔前までは、当然のようにこの「愛の鞭」が与えられており、それに感謝すべきという風習すらあった。無論このことは、生徒の保護者も承知であり、たとえ体罰を受けていても、暗黙の了解をしていたのである。このような過酷な環境を作ることで、集団の秩序を保とうとすることが当たり前だった。しかし、その統率の在り方は、本来の部活動を行う意義に反するのではないか。体罰が生徒に与える影響は、恐怖心の高まりと支配関係におけるコミュニケーションの存在であり、真の社会性を養うことは困難だと考える。そもそも、子どもに手を出してしまうというのは、言葉ではどうにも制御できなくなったことの証であり、そこには、「私に従え」という大人の欲求が大きく作用しているように思う。また、子どもに不快感を与えることで、集団の統率を図ることが、後の未来を担う子どもの教育観にも大きく影響し、独裁的な考え方を持つ大人に育ってしまうことにも繋がるだろう。例えば、チームの和を乱す生徒がおり、その生徒に対して教員が手をあげてしまうことによって、生徒は「このようにして教育は行われる」と潜在的に認識してしまうようなことだ。その子どもは、大人になった時、部下や子どもに対して、自分がされてきたことと同じような感覚で接しかねないだろう。これは、時代と逆行する他、体罰における連鎖の温床である。一方で、それでも体罰を行っている学校が結果を残しているという事実もある。弱小校に比べて、厳しい環境を作り出すためには必要な要素なのかもしれない。ここでの教育的在り方は、「勝つことを学ぶ」であり、物事において、勝つことから得られる社会的要素を、人間の成長へ結びつけているのだろう。もちろん、勝利することには沢山のメリットがある。競争社会を生き抜くためには、勝ち方を知っていることが大切である。しかし、体罰があるかないかは別の話だ。つまり、真に素晴らしいチームは、体罰があるから強いのではなく、むしろ、体罰がないから強いチームである。これは、恐怖心や不快感によるチームの形成よりも、生徒が自ら思考し、行動し、反省するステップを踏むような、より社会性のある活動を意味するはずだ。そして、それをサポートしていくのが指導教員の役割である。従来のティーチャーからファシリテイタ―の立場で、子ども達の指導にあたっていくことができれば、現行の社会にも柔軟な対応のできる大人へと成長していくはずだ。以上述べてきたように、私は運動部活動における体罰は、あってはならないと考える。今後益々ボーダーレス化してくる世界で、生き抜くことができる正しい社会性をもった人間を育成していくためには、体罰に偏らない、適切な教育的指導を行うことが望ましいと考える。
こちらの文章には段落がありません。意味段落に分けるとした場合、どこで区切れば良いでしょうか。答えを確認しながら、解説をしていきます♪
まず、ここで文章を区切ることができます。この段落は何を意味するかというと、そのテーマにおける「事実・問い・答え」です。今回は、運動部活動における体罰問題についてですから、そのことに言及した内容となっています。
更に細かく分けていくと、
近年、運動部活動の体罰問題が顕在化しており、度々メディアに取り上げられようになった。これは、教育の一貫として、教員による体罰が行われることを言う。そもそも、運動部活動とは、競技を通して、生徒の人間的成長を図るために行われるものである。
ここでいう人間的な成長とは、社会性を培うための主体性や協調性、多様性のことだが、果たして、教育の一貫として、運動部活動における体罰があっても良いのだろうか。
私は、このことについて、否定的な立場をとりたい。
このように分かれます。
ここからは、本論部分に入るのですが、まずはここで区切ることができるでしょう。この部分では、前の段落で述べた「意見」に対しての根拠を述べていくわけですが、あえて自分の意見とは反対の考えに共感を示していますね。共感を示すのには理由があります。それは、より自分の意見に客観性が帯びるからです。よってこの段落は、他者の意見に耳を傾ける「共感」を示した段落なのです。
続いては、ここで区切ることができます。この段落は、以前の段落で述べた「共感」を否定する部分となります。当たり前ですが、「共感」しているだけでは、自分の意見がすり替わってしまいますので、ここでしっかりと否定をしていくのです。
共感を示すことで、「私は他に意見があることも知っている」という状況を作り出し、それを否定することによって、より客観性が帯びた文章を作ることができるのです。論理的な文章とは、いわば客観性の伴った文章とも言えるでしょう。
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次にここで区切ることができます。区切らなければいけないタイミングが徐々に分かってきたのではないでしょうか。
この段落では、「体罰があってはならない」という筆者の意見に対する具体的な例を持ち出してきた部分になります。
「例えば~」となる場合は、基本的に段落を変えた方が読みやすいと思います。
次にはこちらで区切ることができます。本論部分で述べられてきた内容を、もう一度考え直していく「再考」部分にあたります。ここでは、自分が主張したい「意見」に対する反論を再度持ち出し、それを否定することによって、主張の正当性を高めようとしていますね。「つまり」の後で段落を変更しても良いかとは思いますが、読みやすさの観点から、意味段落を分けて考える必要性は薄いと感じたため、段落分けを行いませんでした。
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最後の段落です。この段落は今までの文章をまとめる「結論」部分にあたります。「結論」部分では、今まで述べてきたことを簡潔にまとめていく必要があります。ここでの段落分けは、文字数的にも行う必要はないでしょう。
先ほどの文章を段落ごとに分けると、このようになります。
確かに、体罰によって集団の統率を図ることは容易いだろう。一昔前までは、当然のようにこの「愛の鞭」が与えられており、それに感謝すべきという風習すらあった。無論このことは、生徒の保護者も承知であり、たとえ体罰を受けていても、暗黙の了解をしていたのである。このような過酷な環境を作ることで、集団の秩序を保とうとすることが当たり前だった。
しかし、その統率の在り方は、本来の部活動を行う意義に反するのではないか。体罰が生徒に与える影響は、恐怖心の高まりと支配関係におけるコミュニケーションの存在であり、真の社会性を養うことは困難だと考える。そもそも、子どもに手を出してしまうというのは、言葉ではどうにも制御できなくなったことの証であり、そこには、「私に従え」という大人の欲求が大きく作用しているように思う。また、子どもに不快感を与えることで、集団の統率を図ることが、後の未来を担う子どもの教育観にも大きく影響し、独裁的な考え方を持つ大人に育ってしまうことにも繋がるだろう。
例えば、チームの和を乱す生徒がおり、その生徒に対して教員が手をあげてしまうことによって、生徒は「このようにして教育は行われる」と潜在的に認識してしまうようなことだ。その子どもは、大人になった時、部下や子どもに対して、自分がされてきたことと同じような感覚で接しかねないだろう。これは、時代と逆行する他、体罰の連鎖の温床である。
一方で、それでも体罰を行っている学校が結果を残しているという事実もある。弱小校に比べて、厳しい環境を作り出すためには必要な要素なのかもしれない。ここでの教育的在り方は、「勝つことを学ぶ」であり、物事において、勝つことから得られる社会的要素を、人間の成長へ結びつけているのだろう。もちろん、勝利することには沢山のメリットがある。競争社会を生き抜くためには、勝ち方を知っていることが大切である。しかし、体罰があるかないかは別の話だ。つまり、真に素晴らしいチームは、体罰があるから強いのではなく、むしろ、体罰がないから強いチームである。これは、恐怖心や不快感によるチームの形成よりも、生徒が自ら思考し、行動し、反省するステップを踏むような、より社会性のある活動を意味するはずだ。そして、それをサポートしていくのが指導教員の役割である。従来のティーチャーからファシリテイタ―の立場で、子ども達の指導にあっていくことができれば、現行の社会にも柔軟な対応のできる大人へと成長していくはずだ。
以上述べてきたように、私は運動部活動における体罰は、あってはならないと考える。今後益々ボーダーレス化してくる世界で、生き抜くことができる正しい社会性をもった人間を育成していくためには、体罰に偏らない、適切な教育的指導を行うことが望ましいと考える。
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まとめ
このように、文章は段落ごとに分ける必要があります。段落を作ることのメリットは以下の通りです。
② 自分の考えを整理するため
これら2つのメリットがある限り、段落分けをしない手はないですよね?文章を区切ることには、双方向性におけるメリットがあるのです。
ただ、ここで理解をしたからといって、すぐに正しく段落分けができるわけではありません。何度も文章を書くことによって、はじめて習得できるスキルです。これから沢山練習をして、相手に伝わりやすい文章を書けるように頑張りましょう!